心と体

2010年8月 2日 (月)

モルモンにメリットはあるのか

 モルモン教徒の多くが共産論を嫌うが、それは個人的にも賛成である。ローカルルールが数多存在するモルモンの地域差は愕然とするものがあるが、自分の知っているモルモンと、愕然とした何処かのモルモンでは大きな違いがある。

反モルサイトで見かけるのは、熱心とは言い難い嵌っているだけのモルモニストともモルモネットとも言えない人が目立った。実生活がどうであれ、子供がひもじかろうが教会の事務的処理に携わり、褒められ感謝されれば他はどうでも構わない、と言わんばかりの信者とそれを許すどころか称讃するワードや支部の存在は、日本のモルモンの象徴らしく愕然とした。今話題のニート、それも大ベテランニートと呼べる凄腕ニートである。

自分の知っているモルモンは、過剰な甘えを好まない傾向があり経済論や経営論が話題になっても共産論や高福祉経負担など好まれない。モルモンがキリスト教か否かの問題ではなく彼等の気概や向上心は捨てがたい。宗教者が資本主義や競争経済を望むのが悪とは思わない。過剰な甘えを好まない考え方は、世間一般を凌駕する。それが私の知っているモルモンの長所でもある。

健常者に近いほどの快復具合でも、就労に繋がるリハビリも避け人との接触や仕事がらみの話題を含む雑談になると、その場を避けたり退席する人を誰も諭さない。モルモン時代に同じようにしたら、ホームティーチャーや先輩会員に現実に目覚めよと諭されるか、日曜日のレッスンでビジネス好きな彼等に触発され多生なり現実に目を向ける。常春の高福祉経負担共産国家や他人の納めた税金で生活しようなど考えるのも恥ずかしくなる。

傷病利得追求など法に触れようが触れまいがモラルに反すると教えられてきた。宗教界に有ってはならぬ厳しい競争社会信かと言えば、ワードや支部単位で収入を競ったりしない。ビジネス宗教と揶揄されるが、モルモン教会で間接的に教えられる経済や経営は、実践的であり高福祉経負担の共産論者には耳の痛い内容である。

上から目線や高慢で尊大な態度をとる者が多いとの指摘もあるが、これは否定しない。企業なら許されるが、宗教法人としては甚だ疑問である。

可能性を湛えた傷病利得追求者(障害者)とモルモン人の障害者では目くそ鼻くその違いではない。雲泥の差を感じる。モルモンは自己対峙を重んじる傾向があり、瞑想しながら自問自答し改善すべきところを見つけ改善する。世俗的な事柄も多分に含まれるが、現世での御利益と深く関係し益する。理由は簡単で世俗的であろうが正しい部分は正しい。

怠惰なるを好ましいとモルモン人は考えない。例外もあるが大半のモルモンは勤勉を重んじる。汗を出せる者は汗を出し、知恵を出せる者は知恵を出す。少なく出せる者は少なくだし、多くを出せる者は多く出す。汗や知恵を出す比率は個人の状況や才能や能力に応じて出せば良い。教団への献身を指すのではない。日常生活を指している。

障害者に対する偏見や不要な差別が少ない分、可能な範囲での自己向上や諸々の基本的能力向上はモルモンでは基本だった。日曜学校やインステュートが大人の音読練習場と化したのは残念だが、基礎的読み書き計算は教団内だろうと社会だろうと必須である。

学校のような雰囲気が「怠ける心を抑えてなすべき業と仕事を豊かに持つ」ことを悟らせ、可能性を湛えた者が怠ける心を増し加えるのを抑制する。これも行き過ぎると心身が過労状態になり病んでしまう。

西部開拓者と同等を要求されたら要求する方がおかしいが、彼等の気概や自立心と向上心は間違ってない。モルモン精神の一部は今でも実生活で活かされ低迷する自己経済を破綻させずに踏ん張る原動力となっている。

自身の「必要以上の休憩を望む怠ける心」に檄を飛ばせるのは、競争経済好きなモルモンの名残であり、常春の傷病利得追求型他力本願共産論者が気概のない者に見える。彼等の僻みや嫉妬は不愉快極まる内容だった。

僧侶も牧師も神父も怠惰を勧めない。モルモンの経済偏重は否めないが、学んで損はないメリットもある。入信は勧められませんが、モルモン流(米国流?)経済やdebateは長所の方が多い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月25日 (金)

の知っているクリスチャン

 私の身近なクリスチャンは討論や議論に長けたインテリ風が多く、私生活も厳しい戒律に基づいた極めて閉鎖的で精神疾患を患っても疑問の余地がない厳格さが特徴だった。

閉鎖的で厳格なストイックな教理教条主義の彼等も、条件を満たせば規制からある程度は離れられる。

エホバの証人やモルモン教徒も、嗜好品や飲食物まで厳しい戒律が定められており交友関係も自ずと限定的となる。職業選択の自由も憲法で保障されているのが常識だが、彼等には独自の見解と神が定めたと称する、戒律に付随する規定が暗黙の了解を基に作られ縛られている。

元勧誘員が話してくれた伝道(勧誘)活動からは異端特有の、しつこい勧誘と伝道を区別できない教団による教育の弊害が随所に表れている。

エホバの証人やモルモン教の勧誘員が他の教団員と知り合い自分達だけが正しいと立証し相手に納得してもらおうとしたが、その手法は非常識で迷惑でもある。しかし、彼等は『栄えある神の大事業の担い手』との自負心からの行為であり罪悪感の欠片もない。

エホバの証人やモルモン教徒も社会と物理的に断絶された生活はしていないが、深い交流や交友関係は築くのが難しくなる。教理教条主義の彼等も理解者や友を欲する本能は失っていない。失わせてはならない本能的欲求を伝道と称する勧誘活動に傾ければ会員数を増やすのに好都合となる。

元勧誘員と個人的に親しくなった会社員で他教団所属のA氏を元勧誘員は自分の所属する教団のメンバーにしたくなった。A氏と元勧誘員が親しい友人として長く関係を維持するには、A氏にも元勧誘員側の思想信条を同じくしなければならない。

個人的に親しくなった元勧誘員とA氏は休みの日など行動を共にする機会が増えたが、これも勧誘のチャンスと捉えA氏が自販機で煙草やビールを買った際に煙草やビールを取り上げゴミ箱に放り込んだ。当然、こんなことをされれば口論になるが、元勧誘員は善意のつもりでA氏に自分の所属教団が絶対的に正しく他は全て誤っていると、この口論を突破口にして解説を始める。

元勧誘員は煙草やビールは身体に悪い嗜好品であり禁じられて当然の毒物であり、それらを禁じようともしないA氏が所属している教団は誤っているのだと、自分の所属している教団の正しさを立証し、相手を説き伏せ自分の所属している教団に入信するよう勧めた。

A氏と元勧誘員の間に徐々に溝が出来たが、元勧誘員はA氏を友人として捉えられなくなっていたが、本人は気付かないまま純粋に迷惑な伝道と称する勧誘活動をA氏に続けた。結局、A氏は元勧誘員の期待に反して彼に心を閉ざし、勧誘活動や元勧誘員の教団行事と無関係な事柄であろうと、一再の関わりを断ち切られる結果となった。

もしA氏が自販機でビールを買い、その場で飲んで車の運転でもしようとしたら止めて当然であるが、法に触れていない、病的状況にもなっていないA氏にとって元勧誘員は理解しがたい迷惑な存在だったであろうと推測できる。

A氏に限らず、元勧誘員は多くの友人を勧誘しようとして疎遠になったり、絶縁状態になったりした。職を何度も失い困窮してもなお『栄えある神の大事業の担い手』として経済的困窮や社会的制裁も、神からの褒美として感謝と喜びをもって受け容れていた。

元勧誘員に後悔の念が無いまま次の世代に語り継がれれば、非常識で迷惑な伝道と称する勧誘活動を継承し、被害が拡大する。

誇らしげに自分を語るなら価値観や教義を同じくする仲間内でのみ誉れを得るだけで、神やイエス・キリストやエホバを証してはいない。自分が人からの誉れが欲しいだけに見えてしまう。

エホバの証人やモルモン教徒は今でもこんな伝道と称する勧誘活動をしているのか?。最近は、近隣在住のエホバの証人やモルモン教徒からここまで酷い伝道と称する勧誘活動をしたとは聞いたことがない。

小さな揉め事は後を絶たないが、マスコミを通して広く知られ自粛や反省でもしたのか?。

エホバの証人、モルモン教会、上層部は富裕な人が多い。近隣在住のエホバの証人やモルモン教徒は富裕層でもなく平均的な生活水準である。家庭内は知らないので、そう見せかけているのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)